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エッセイ

中学校
2021/01/20
故障を乗り越えた水泳選手
 

私は尼崎市立の中学校で40年来教員を務めている。教科は国語であるがここ12年は特別支援学級の担任をしている。部活動は水泳部を担当してきた。その間様々な役職に就いて多くの生徒たちに関わってきた。

なかなか思うように指導できないことが多かったが、頑張る生徒の姿もたくさん見てきた。身近なところでは、各種作文コンクールの入選や検定試験の合格。スポーツ面では、オリンピックへ出場、プロ選手での活躍、全国レベルの大会での健闘等々。その中で「教師冥利に尽きる」という言葉に値するのは、私が4校目の学校で50歳前後の頃の水泳選手のH君であろう。

前任の顧問教員の異動で水泳部の存続が心配されていた中で私が着任し、中3の兄からそれを聞いていたH君は、クラス発表で私のクラスになったことを見つけて飛び上がって喜んでいた。1学期は国語係に立候補し、2学期は学級委員長を勤めた。小学校時にスイミングスクールで練習していたH君のご両親は熱心で、大会には必ず応援に来られた。定例の家庭訪問の時には小学校時のH君の活躍した様子のビデオを見せていただいた。

H君は長距離種目が専門であったが、1年時の最初の市内大会の前日には、自分の思うような泳ぎができていないと弱音を吐いた。中学校所属の最初の大会なので力みが入り疲れもたまっていると私は判断し、明日は阪神大会への通過点だ、フォームケアでトップの選手についていこうとリラックスさせた。その効果があったのか、その他の部員たちと組んだリレー種目で3位に、個人種目ではなんと自己記録を更新し2位に入賞し更に阪神大会を経て県大会まで進出した。

2年時になって市内大会を翌月末に控えた5月上旬、教室移動を急ぐあまり階段を踏み外し脚を骨折し入院した。泳ぎ込みの必要なH君にとっては致命的ともいえる痛手であった。あせりの気持ちから心が荒れていると母親から嘆きを聞いて、私はとにかく今はお医者さんの言うことをしっかり聞いて回復をめざそうと諭した。担当の看護師さんも知り合いの有名な水泳選手を呼び、励ましてもらった。

6月初めに退院したが、しばらくは松葉杖生活であった。そしてやっと練習を再開できたが、当然すぐには故障前のようなペースはこなせない。しかし1か月先の県大会に照準を合わせよう、泳ぐことさえできれば、市内?阪神は通過できると言い聞かせた。それであせることなくじっくりと泳ぎ込むことができた。そして県大会にはベストの状態で臨むことができた。滋賀県開催の近畿大会には私は行ったことがないので、今年は連れていってくれよという呼びかけと母親の励ましもあり、レース中盤で離されかけたがよく粘り4位で近畿大会進出を決めた。ご両親は大変な喜びようであった。母親はケガをした時には今年はもうダメかと思いました、と涙ぐまれた。私は何事もギリギリまではあきらめずに頑張りましょう、ダメだった、は終わってから言えばいいことですと言った。

近畿大会の宿舎には父親が泊まりで応援に来られ、夕食時に私の出身大学を尋ねられぜひ息子をそこに進学させたいと言われた。私はそこまで慕われたことはなく、当に「教師冥利に尽きる」というべきであろう。私は非常にありがたいお言葉ですが、本人の希望の学科をしっかり選んでくださいよと言った。

これが自信になったのか元々学業成績も優秀であったが、直後のテストで学年1位の成績を収めた。3年時には更に泳力を伸ばし、個人2種目で全国大会に進出した。その様子を市内の英語スピーチ大会で発表し、入賞するというオマケつきであった。

父親の言葉通りH君は私の母校である関西の私大の附属高に進学した。高校の水泳部でもリレー種目でインターハイに進出した。1年間の米国留学を経て、大学卒業後は地元大阪を基盤とする高待遇で有名なベンチャー企業で活躍中である。