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エッセイ

大学(短大?大学院含)
2020/08/04
ささやかな役得

教師が対人援助職であることをふまえれば、逆説的ではあるが、教師冥利に尽きる瞬間にその教師自身がこの上なく幸福であるとは限らない。この上なく幸福であると感じられるのは、その教師が教師として関わる他者の幸福を、あたかも自分自身の幸福であるかのように感受するからである。
ただし、教師の行いは「純粋贈与」であるとも言われる。純粋贈与とは見返りを求めない贈与である。他者の幸福を願うことは普通の感覚だろう。けれども、教師としての自分の行いが他者の幸福に常に寄与するはずであると期待する時、もはやそこに純粋贈与はない。なぜならば、そのように期待する教師は、自身の贈与の見返りとして、他者の幸福という贈与を求めていることになるからである。この時、他者の幸福が教師の冥利であるとしても、教師の行いはいつのまにか教師自身のための行いに変質してしまうだろう。……このように頭では理解しているものの、若輩大学教員にとって、見返りを求めないというのはいまだ、「言うは易く行うは難し」である。

今の大学は、多種多様な社会的要請に応えるべく多忙を極めている。授業内容ひとつとっても、教員自身の専門性に基づき自由に決められるわけではない。そして、このような状況では、学生への指導もスムーズにはいかない。社会的要請を念頭に、小さなことでも逐一指導しがちになるからである。もちろん、指導の理由は説明するが、常に理解を得られるわけではない。この時、「どうしてわかってくれないのだろう?」とつい考えてしまう、見返りを求める自分を見つける。学生が幸福でないこともわかる。
最初に「教師冥利に尽きる瞬間」と表現したのは、それをほんの一瞬あるかどうかという奇跡として認識しているからであると、これを書きながら気づく自分がいる。 

しかし、とも思う。純粋贈与どころか贈与も十分にできない未熟者にとって、教師の冥利は他にもあるのかもしれない。能天気で人に誇れるほどの苦労もしてきていない自分では、「共感する」や「寄り添う」といった行為自体が不誠実であるような、想像しがたい苦悩を背負って入学してくる学生に何人か出会ってきた。そのような学生達は本当に真面目で努力家で、大学の勉強、課外活動、アルバイト、ボランティアなどに寝る間を惜しんで全力を注ぐのだが、不条理にもその学生達は大学生活の間に別の苦難に遭遇するのである。けれども、学生はその新たな苦難すら受け入れ、苦境の中にあっても最善の道を歩み続け、ついにはそれを自身の成長の糧にしてしまった。そして、こうして山あり谷ありの大学生活を経るうちに、もともと背負っていた苦悩の方も、乗り越えはしないまでも、より上手な付き合い方を見つけていったのである。

この学生達に対して行ったことと言えば、苦悩が少しでも軽くなるよう内心で願うことくらいであった。要するに、具体的な贈与は何ひとつできなかったのである。いやしかし、言い訳ではないが、この学生達には最初から贈与など必要なかったのだろう。学生達は自らの苦悩を、他者に共感されたり寄り添われたりして軽くなる類のものではなく、あくまで自分自身の力で乗り越えるべきものとして正対していたのだろう。卒業時にかけてくれたお礼の言葉は、社交辞令などでないなら、学生の苦悩を知っていながら余計な贈与をしなかったこと、学生が自身の苦悩に向き合うのに必要な大学生活の場を保障するのに(結果として)役立てたことへの謝意なのかもしれない。
……これもやはり、自身の贈与への見返りを求める心性から抜け出せてはいない。でも、このように修業が足りないからこそ、他者がその人自身の力でさらに成長していく過程を垣間見られることに、この仕事の良さを見出せていると言えるだろう。このささやかな役得すらなくなったら、未熟者に残されるのは、社会的要請に応えるばかりの暗い日々かもしれない。