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エッセイ

大学(短大?大学院含)
2020/07/13
教師冥利に尽きること

私は、教員養成系大学(数学科)の出身です。曲がりなりにも数学の研究ができるようになったのは、言うまでもなく大学院で作用素環の大家であるN先生に師事したからです。先生は世界と競う作用素環のゼミナール以外に、傍流の作用素論のゼミも持たれていて、そこでは最先端というより、幅広く教育的なことも含めて先生がやりたいもう一つの側面を実現されていたのではないかと思います。後者のほうでお世話になりました。どちらのゼミもケーニヒスベルク大学の数学者ヤコビが嚆矢とされる、古典文献学に倣ったゼミナールのスタイルをとっていました。おそらく数学でも珍しいのではないかと思います。深く批判的な討論を主体とし、研究と教育とを結び付けたゼミナール、今風に言えば、アクティヴラーニングの極みではないかと思います。そこで常におっしゃっていたのは、「教えることは教わることである」という言葉でした。定年を目の前にして、この言葉がようやく実感できたように思います。教師冥利に尽きるのは、「学生に教えられる」ということが実際に起きることでした。

やはり、こういうことがしばしばおこるのは本格的な研究ゼミナールができる大学院生を持った時でした。個人情報なのでイニシャルで3人の指導院生N、 K、 M君たちの例をあげましょう。最初のN君は学部時代からずば抜けて数学ができた学生で、こちらがとんどん勉強しないと指導することがなくなるぐらい追いまくられた優秀な学生でした。当時手掛けていた代数幾何学的な符号理論は代数幾何学自体が深い内容を持っていて(私のような部外者の)素人にはなかなか手が出せないものでしたが、彼は何なくチャレンジして消化していきました。実は私が実際的な指導の面倒を見るという条件で他大学の博士課程に進む道もあったのですが、親から早く就職しなさいということで断念せざるを得ませんでした。これは単なる個人的な感想ではなく、修士論文の発表会で、他の教授からも研究者の道に進まないのはもったいないと言わしめたので間違いないと思います。でも個人的に一番うれしかったのは、実は研究成果ではありません。彼は英語が嫌いで英文を読むことを非常に嫌がっていたことがありましたが(それだからこそ教育大に来てくれたのでしたが)、やむを得ない局面で何とか手助けして、だましだまし読ませていたのですが、ある時、日本語化された文献を持ってきて、「この日本語ではわかりにくいので原文を見たい」と言ってくれたことです。あれだけ嫌そうにしていた彼が進んで英文を読むなんて!と、感激しました。

2人目のK君も学部時代よくできていたのですが、彼は前のN君を剛とするなら柔の極みでした。スポーツマンであることも影響していたかもしれません。彼にはその柔軟さで「こんな感じじゃないかなぁ?」とよく「教えられ」ました。結構高いレベルのことを平気でこなしていました。

最後のM君もスポーツマンで、そんなに目立ってできるように思わなかったのですが、学部の卒論ゼミで頭角を現し、その非凡な才能を開花させてくれました。院生時代では複雑な弦が絡んだ幾何学的問題を難なく解いてくれたりして、彼にも教わることが多かったと思います。

3人に共通することは、難解な理論を怖がらず、決して最後まであきらめない芯の強さがあったことでした。私個人だとあきらめていたかもしれないことも、本当に救われました。教師冥利に尽きるとはこのことだと深く感じました。