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卒業生CATCH! 松原 英輝 さん

グラウンドで撮影に応じる松原さん

自分の気持ちに正直に

大学院 保健体育専攻体育学専修 1999年3月卒
横浜F?マリノス 監督通訳
松原 英輝さん

 横浜F?マリノスの練習拠点、マリノスタウン。大声で選手に指示するフランス人新監督エリク?モンパエルツ氏の傍らで、負けない大きな声を出すのが通訳の松原英輝氏です。「監督の意図を正確に伝えられるよう、言葉だけでなく、声の大きさ、リズム、ジェスチャー、身体すべてを使って表現しています」。松原氏の本職は通訳ではありません。日本人で数少ない、欧州サッカ一連盟(UEFA)公認A級ライセンスを持ったコーチです。

 通訳を務める以前は、中高生を対象とする日本サッカー協会のエリート養成機関JFAアカデミーに所属して、福島で監督を3年、熊本字城でコーチを2年経験し、全国大会にも出場しました。それでも、「選手個々の能力を引き上げ、魅力あるチームを作るにはどうすればいいか、日々悩みました」と指導法確立の必要性を痛感します。そんな時、フランスでのコーチ留学経験を買われ、監督通訳の打診がありました。「アカデミーの子どもたち、育成年代の選手が目標とするJリーグの世界。そこでどんな指導が展開されていて、トッププレイヤーが練習でどんな取り組みをしているのか、指導者に戻ったとき良い経験になると思いました』。

グラウンドで選手たちと話す松原さん

 チームに加わり半年が経ちますが、「指導法の妙に捻ることもあれば、こんな基礎的な部分を指導するのかと目から鱗が落ちることもあり、すべてが勉強になります」と語ります。さらに、「中澤佑二選手は全体練習が終わっても毎日自主練習を続けています。日本代表を経験し、37歳となる今もトッププレイヤーですが、それでも努力を重ねている。また、彼や中村俊輔選手はピッチ外での気配りも細やかで、人格も素晴らしい。だから彼らは一流選手と言われるのですね」と選手からも刺激を受けています。
 夢の世界で順調に歩みを進める松原氏ですが、サッカー指導者として生きる道を選択したのは本学大学院卒業時、年齢にして27歳のときでした。サッカ一部に所属していた学部在学時は、保健体育教師となる道を、大学院時代はトレーニングに関する研究をしていたことから、フィジカルコーチの道を模索したこともありました。しかし、大学院卒業が間近に迫った時、まったく違う決断を下します。「それまでの進路は、本当にやりたいことから逃げて安全な道を選んできました。人生最大の岐路に立ち、自分の気持ちに正直に生きようと思いました」
 自分の一番なりたいもの、それはサッカーの指導者であると気づき、コーチライセンスを取得するため、サッカーの本場フランスへ単身留学することを決意しました。同級生が教員や企業人として社会生活を送っている中、将来の保証もなく異国の地へ渡ることを心配する声もありましたが、「自分はサッカーで生きていく上で何も持ち合わせていない。この留学で得られるものに懸けてみようと決意しました」と当時の心境を語ります。

インタビューに応じる松原さん

 留学先のフランスでは、フランスサッカー協会が実施するコーチ養成研修を受講しました。そこでは、トレーニング理論の単位を取得するほか、ピッチでの指導実践、プレーヤーとしての技能テスト、実際に監督として15歳チームを指導する等数多くの課題をこなしました。生計は、深夜の卸売市場や通訳のアルバイト、両親の援助により工面し、5年越しでA級ライセンスを取得しました。
 この留学が指導者としての素地をつくったといい、その陰には本学大学院時代の下積みが大きかったと語ります。「大学院で研究とサッカー部指導の両立を経験し、自分の物事へ取り組む姿勢の甘さを実感しました。〈全力〉で取り組まないと成果は上げられない。そして、〈全力〉とは自分がそれまで思っていたよりももっと高い所にあったのです。それを自覚できていなかったら、適当にごまかした人生を歩んでいたのではないでしょうか」。

 将来は育成年代の指導をしながら、フランスの育成コーチ最上級資格である「育成スペシャリストライセンスJを取得したいと語る松原氏。ただ今は通訳として、「選手のワンプレーに大きな責任が伴うように、自分も同じ責任感を持ち、監督の言葉を伝える一瞬一瞬を真剣勝負と思って取り組みます」と視線はチームの勝利に向かっています。

   

(2012年12月取材)
※掲載内容はすべて取材当時のものです。

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